僕が僕であるために。
タイトルはかっこつけてみました(笑)
尾崎豊さんが好きでよく聴いてました(過去形!?)。
尾崎さんの歌のイメージって「社会に対する怒り」だと僕は感じていて、それはその当時の日本の社会情勢?と合い間ってヒットしたんじゃないかなって思ってます。(これ以上書くと趣旨とズレていくのでこの辺で 笑)
この「僕が僕であるために」は社会に対してではなく、自分の内面との戦いでも同じだなって思います。それは怒りや悲しみなど一般的にネガティブとされる感情を「受け入れる」ための戦い。戦いというと武器を持って争うイメージだけど、そうではなくて自分の中の「ネガティブちゃん」を抱きしめるイメージです。非暴力不服従のガンジーです。反戦運動ではなく平和活動のマザー・テレサです。(もう例はいいか 笑)
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「価値がある、ない」もうやめにしませんか? - たなぼた生活
「自己肯定・自己受容」の世界のために、僕が僕であるために、自分の中で起こるすべての感情を感じる必要があるんだと思います。
楽しい、嬉しい、わくわく、うきうきなどのポジティブな感情って感じやすいし、世間的にもOKってされやすいと思います。一方で、悲しい、寂しい、イライラ、モヤモヤ、怒りなどのネガティブな感情って感じにくいし、感じてはいけないっていう抑えがある気がします。個人でも、周囲の風潮としても。弱音を吐くと励まされるってその典型だったりね。
そのどっちも感じてあげる。
ポジティブちゃんだけでなく、ネガティブちゃんもみてあげる。
「そうかそうか、そこにいるのか~」って感じで。
無意識のうちに自分の中のネガティブって否定しがちです。でも、否定すればするほど辛い。いや、むしろ否定するから辛いんだと思う。
ポジティブだけを感じる天使のような人間なんていません。そう見える人でも内側はドロドロです。でもそれでOKなんだと思います。もう僕たちは汚れているし、違う意味では全く汚れていないんです。言葉では説明しづらいけど。
こどもは全力で楽しさも嬉しさも怒りも悲しみも感じて、全力で笑い、全力で泣いてるけど、こどもって汚れてるように見えますか?むしろすごくキラキラ輝いてるように僕には見えます。
そんな訳で?どんな訳で?
どんどん感じていきましょーってことでした!(あぁ、纏め方が雑…)
ちょっと説明ばかりになってしまったので、次回はネガティブ全開の「魔族」だった僕がいまのゆるゆる状態になるまでを書いていこうかと思います。