【てめぇの過去話に用はない!】過去は活かすためにある、悔いるためにあるんじゃない。【さっさと感じよう♪】
最近の気づきを書きますね。
ここ数か月、「お茶会」と称して自分主催でイベントをしています。今日で9回目でした。また、他の方が開催しているイベント(お話会、シェア会)などに参加していて、感じたことがあります。それがこの記事のタイトルです!
過去は活かすためにある、悔いるためにあるんじゃない。「あんたの過去はどうでもいい!」です。
どや顔。
そう感じませんか?
話戻りますが、僕がやっている「お茶会」は、自分の考えていること、感じていること、思っていることを何でも話してOKですよ~って企画なんですね。大抵の方が「こんなことに悩んでまして。。。」と悩み相談やその話題を持ち出してくれます。それはとても有り難いんです。とても貴重なんですね。たくさん気が付けるから。
一方で、こういうことがあります。
「~なことがありまして(まずココがかなりの長文)。」というクソ長い前置きで始まる。からの。。。。「~についてどう思いますか?」
みたいな話。僕はいつもそういうニュアンスの時こう思ってます。
ど う で も よ く な い で す か ?(きょとん)
それって必要ですか?本当は「~についてどう思いますか?」なんてどうでもよくないですか?同意してほしいんですか?「ヨシヨシ辛かったね」って言って欲しいんですか?そんなに依存したいんですか?させてあげましょうか?(笑)いつまで言い訳したいんですか?いつまでそこから逃げたいんですか?
というわけで、そんな「過去のお悩み相談」には用がない。ってか僕がつまんないんです。
言葉のニュアンスが難しいのですが、僕は「悩んでいる状況」や「~の場合どうしますか?」という話には興味がありません。そのときになったら考える、行動するとしか言えません。
ただ、悩んでいる、モンモンとしている、葛藤している、怒っている、悲しんでいる、情けない感じ、無価値観、自己否定観、アレがドバァっとなってこう!、きゅんきゅん、モヤモヤ、ざわざわ。。。そういった「感覚・感性・感情」の話が好きなんです。そこから気づきや学びがあると思っています。
これって僕だけじゃなくて、話している本人もそれを求めているんじゃないかっていう仮説があります。まだ僕の仮説ですが、だんだんと実感してきました。
でも、それって怖いのも僕は知っています。怖いですよね。知らない自分が出てきますもん。見たくない、感じたくないですよね。
普段「いいひと」をやっている人は「怒っている自分」を感じたくないし、いつも何かに批判している人や「俺は大丈夫だ!」みたいな虚勢や強がりをしている人は「悲しんでいる自分(泣いてる自分)」を感じたくはないし。
嫌ですよね。見たくないですよね。
でも、本当はそこ感じたいんですよね?
だから悩むんじゃないですか?
だからモンモンとするんじゃないですか?
だからちっとも前に進まないんじゃないですか?
だから何か状況(職場や恋人とか)を変えてもまた同じような状況になるんじゃないですか?
それもう卒表しませんか?
少しずつ辞めませんか?
まだそこにいたいですか?
僕は飽きましたよ(笑)
本当はどんな自分もOKってしたくないですか?