たなぼた生活

ゆるゆる やりたいことをやる人生を。「棚からボタモチ」みたいな生き方を実験中♪

脱依存?脱自立?本当はどっちも両立するんじゃない?

依存と自立。

とても面白くて深いテーマだと思う。

 

そして「自由」や「幸福」のようにすごく曖昧な言葉だと思う。だからこそ誤解を招きやすい。たぶん「依存と自立」には「行動レベル」と「精神レベル」の話があり、僕がこれから書くのは、おもに「依存と自立」の精神レベルにおいて。依存と自立において、行動レベルと精神レベルの話をごちゃ混ぜにすると「???」になると思う。

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僕自身、精神的に弱っているとき、誰かに精神的に依存することがよくある。そんなときLineやメッセージで「構ってよ」と言っても、大抵は残念ながら満たされない。それはその相手との関係にあるんじゃなくて、自分の問題。自分とのパートナーシップだからだと思う。


また、「尊敬する○○さんが言うからOKだ」「○○さんに応援されてるからやろう」っていう気持ちが大きくあるといつか挫ける。「イケイケだ♪  調子いいぜ!ポジティブ全開!」で現実にお金やら人脈やらが回るうちは麻痺してる。でも、それが途端に上手くいかなくなったとき、その○○さんを恨んだり、憎むくらいのレベルになる。

 

それで違う○○さんを探し出しても最後は同じ。それは恋愛で「ダメな人」とばかり付き合う人や、転職を繰り返して自分の天職を探してる人に構図は似てる。詳細は今回は割愛で。

 

僕にはそんな体験があった。というよりそんな体験ばかりだったと思う(笑)簡単に言ってしまうと寂しかったんだと思う。


構ってほしかった。「あなたはそのままでいい」と無条件に承認して欲しかった。寂しさも否定してたし、寂しいと思ってる自分も否定してた。

 

それを「自分以外の何か」に求めれば求めるほど苦しくなった。今でも弱っているとそれを求める。そして結局のところそれは満たされない。

 

自分に自信がなかった。
自分の決定を信じられなかった。
自分の直感を通せなかった。

 

だから「○○さんが言うんだから(人生レベルで)正解だろう」として、自分の責任(権利)を他人に譲ってしまう。

 

「責任」という日本語のニュアンスだと「責任とれよ」「あんたの責任よ」みたいに重くのしかかるイメージだけどそうではなく、本来は「人生の権利」だと思う。

 

責任があるということは、それについて自分で決められるということ。でも、本人としては無意識にその権利を譲っていて、自覚はないから「○○が悪いんだ!」となる。この「○○さん」には特定の人物以外に、親、教師、会社、制度、システム、政治、日本社会、世界、宇宙、神様など何でも入ると思う。自分以外の何か。


本当に自立している人は「全部自分にあること」を理解してる。頭ではなく存在全体で体現してる。「ただやりたいから、面白いから」で動く。そして、どんな結果になっても受け入れる覚悟があるから、どんどん人に頼れるし、人を巻き込めるんだと思う。そして魅力的。

 

それは上記の依存とは違う依存だと思う。イメージとしては「大自然の一部である私」みたいなニュアンス。僕たちは自分の意志(自立)を持ちながら、水や空気や体の機能などは自然(無意識)に依存している。

 

これは推測だけれど、幸せな人は精神レベルでは自立していて、行動レベル(人に頼る、お願いする、相談するなど)は依存しているんだと思う。本来、依存と自立は両立する。ただ視点が違うだけ。


そういう人間になりたいなぁと日々思ってます。
少しずつ、一歩ずつ。